玉の井 赤線跡 散策
戦災の後もぼんぼん適当に家が建ったせいで道がえらいことになってます。
元々は大正の頃、浅草から銘酒屋(居酒屋を装った売春屋)が移動してきたことから始まります。この頃はまだ東京市外だったそうです。
史実上はそうなっていますが、大正より前に既に娼婦はいたという資料もあります。
その後、関東大震災でぼろぼろになった浅草は復興を目指す際に銘酒屋の再建を許しませんでした。そこで許可が下りていた玉の井、亀戸等でが長屋の銘酒屋が増えていきます。
居酒屋の許可が下りていただけで、その行為自体は黙認されていただけです。
要するに、政府公認の吉原とは違い、潜りの売春屋ということになります。
一時は1000人の女郎がいたそうで、その時の金銭価値で一時間2〜3円だったそうです。帝国大学卒業の初任給が70円くらいだそうです。。。よくわかりませんね。。大体6000円くらいってところでしょうか。
玉の井は永井荷風、太宰治なども通っていたそうですよ。永井荷風は本八幡在住だったのでアクセスも良かったことでしょうw
文人が多く来たので小説の舞台にもなっています。
その後戦災があり、最後の東向島6丁目付近に移動します。
戦前戦後で場所が変わっているわけです。
再建ではカフェーとして再建します。
「鳩の街」という商店街?がカフェー通りになります。
今まで色々な赤線跡を歩いてきましたが、一番赤線っぽさが残っていない場所でした。
モダンな街灯、モルタルの銘酒屋跡っぽいものはあるのですが、露骨に残っているものは少なかったです。
鳩の街という垂れ幕は感動しました。
そんな感じで、今はただのおっとりとした住宅地です。
でも、永井荷風が「ラビアンス」「ラビリンス」と称したほど入り組んだ道、
様々なものに理由があると思うと感慨深いものがあります。